2chのガイドライン板に詭弁の特徴のガイドラインというのがあるので、それを使ってアンチ種をからかってみたのがあったのだが(そしてシャア専用板のアンチスレに勝手にときどき貼られ、その連中はけっこう簡単に釣られ(しかも教科書的予想通りの非難・ページ内で反論済みの言葉を返してき)たのだが)、書いてみたらガイドライン自体はまとまっていなくたいして面白くないことがわかったので、そのときから集めていた典型的な種批判をまとめなおしてみた。この手のパターンの真似をすればお手軽にアニメに限らず何でも叩けます。最低限、「評論」の最低基準は守ってもらいたいものだ。批評のふりをしたただの非難・中傷が多すぎる。下手な叩きは逆効果だっつーの。叩くならもっとうまく叩け。
メイン参考資料はaccessup.orgかな。SEED / DESTINY。あと私宛に飛んでくるメッセージ。穴を叩くつもりで書いているだろう論に穴が多すぎて( ゚Д゚)ポカーンするのが基本。何か意見が書かれたものがあるときに常に反論を考えるというリテラシーの基本の簡単な練習にどうぞ。
他の作品の評価を見れば分かるとおり売れている作品は基本的に「悪い」になるのであった。評論を自称するならまともな手段で。
個人的にも、アンチに目立つ論は監督と脚本の夫妻の叩きのような気がする。人格非難ですむと思ってるところがほほえましい。
中1くらいの数学で確実に注意されること。証明の途中で結論を利用してしまう。トートロジーや循環論法もあり。
作品評価における基準が一定していない人が多すぎる。良い点を抽出したら作品ごとに異なるのは当たり前だが、欠点として挙げられているものがそのまま他のほめてる作品にも適用できる場合どうしても下手な批評だと考えられる。あいまいな判断基準、定義不能な語、主観的な基準を利用する。総論を言うがなぜそういう結論に達したか不明。レッテル貼りの一種にもなる。
議論にできないのに、反論がされないことを全員が自説に同意したということにする展開をしたがることが多い。
また、個人の好き嫌いと良悪を区別しよう。
どちらを取っても批判できることについて話す。基準があいまいなので中間点は絶対に取れない。改良案として批判者が出しているものをそのまま採用したとしても基準を変えれば元に戻すのが改良案になってしまう。また、表現量のバランスを考えず、省略してもかまわない場所や本筋に関係ない点の描写をしつこく求めることが多い。
同じ理由を褒めるのにもけなすのにも利用する。
ほぼ全ての文学はパクリ。と言い張ることは可能です。これらの区別は常識の範囲だと思っていたが。
他に「お約束」とか「べた」とか「対比構造」とかいうものもある。この中で特に非難すべきはパクリのみなんだが。対比構造が読めない人は義務教育で何をやっていたのかと。
SEEDの場合、「ガンダム」と名がついているのを利用して話の元ネタを実にわかりやすくしてあり(初期プロットは明らかにファーストガンダム)、既に知っている視聴者に次の展開を予測させつつ変化させてきたオマージュというかパスティーシュの一種と見るのが自然なんだが。古典引用には極めてよくある構成テクニックである。さすがに○○のあの性格の部分は××(ちょい役)のパクリだ!とか△△という名前は他の□□という番組でも使ってた!とかいうのを見た時にはもうアホかと。
この3つで網羅していると思える人に驚き。「どれでもない」とか論理におけるdc(don't care)を知らないということなのだろう。
過去の名作と同じような基準しか認めない。比較対象にはわざと関係の薄いものを選ぶとよい。
作品によって重視して描写したいポイントが異なっているので、しっかり描写するころと略して描写するところに分かれるはずだが、略してしまったところに固執して文句を言い続ける手もある。
悪印象を残す単語や漢字を故意に使う。突然結論じみた非難を吐く。根拠や説明はなしで理由にする。読者に妥当か判断してもらう手順を自分から捨ててるように見える。理由を書かないのに説得力があるはずがない。というか単なる思考停止による中傷である。説得力を失うので逆効果。はっきりいって多すぎる。自分がどういう基準で見て判断しているかを書くべき。評論文の価値は結論ではなく、途中の思考過程・理由の提示にある。議論でも「なぜそう自分は考えたか」を出すように。結論だけ与えられても困る。
「期待を裏切った」「予想を下回った」といった表現は、自分があらかじめ期待や予想をどこかに公表していなかった場合はいくらでも後付で言えてしまうので全く意味がない。あまりに多すぎる理由なしのレッテル貼りである。
必要条件と十分条件を理解せずに文章をつなげるのに気をつけよう。「Aだと必ずBになる」と「AでないとBにならない」は完全に別物だという関係が理解できていないことが多い。日本のマスコミや政治家でも全く同様のパターンのかなり怪しい意見を出してしまう癖があるので困る。
ほかにも理由と結論の結びつきが個人の価値観によって違うことが多いため必ずしもつながらない文を書く。Web上には嫌儲と呼ばれる価値観に染まった人がしつこく発言したがるという困った風潮がある。
放映前・放映後にどこかに書かれた設定資料を金科玉条とし、少しでも外れているように感じたらそのまま否定しつくす。設定があってそこから描写があると常に考えている。SF設定だけでなく、登場人物の初期設定にまで広げたがる。
科学的な思考態度を取るならば、実際に起こったことや描写されたことを重視し、それが成り立ったのはなぜかと考えなくてはいけない。そこから無理矢理でも設定を作りこむのがガンダムの楽しみ方と思う。「登場人物Aはこういう性格だからこう行動しなくてはならない」と判断するのは間違っている。「登場人物Aは作中でこういう行動を取る傾向があることからこのような性格と想像できる」と考えるのが鑑賞態度として適切。
「意図の誤謬 (Intentional Fallacy)」と呼ばれる概念もある。作者の作品に対する解釈が最優先されるというのは間違いということ。
やたらと形容詞(日本語学校文法で言えば副詞・形容動詞なども含む)が重なる文はたいていレッテル貼りである。基準がはっきりできない主観的な語が多いほどその傾向が強い。あまり支持されない極右極左の政治アジで良くあるけれど、作品評でまでやられるとかなり驚く。感情的に叩きたがっているだろうなと思ってしまう。
「本質的な」という言葉は、「おれがいいたい」と同じ意味ではないかと私は疑っている。』
自分と異なる意見を出している人についての批判をして論に対する反論の代わりにする。これをやると続く記述がたとえ真実を含む批判でも(まともな読者には)全く信じてもらえなくなるという実に効果の高い方法である。人ではなく記述を批判しましょう。
また、他人の評全体について一言で放言すると批判した気分になれる。文書全体向けの批判をするときには前提なしの結論を言い捨てるのが基本。
このサイトの一連の文章に対しての批判のうち大半がこれなので苦笑せざるをえない。
作品内容に直接文句を付けずに製作者を叩く。ダメ人間だろうが変態だろうが不細工だろうが面白いものを作ればよいに決まってる。人間性と作品は別。有名なアニメ監督(に限らずクリエーター)って人格とか性的趣味とかに問題がある人が多いのは気のせいか(笑)
ソース不明の言論を利用して叩く。故意に部分的に抜き出して意図をずらして叩く。意図を勝手に推測して批判する。会社や製作者の裏事情ネタが大好きなことが多い。いわゆる脊髄反射もこれかと。
製作者の人格非難に物言いがかなり重なる。
伏線や逆向き演出について批判する。あとでどのように回収されるかは気にしない。反語的用法・仮定的用法を解さない。物語を読むにあたって誤解を基にした批判や後に否定される言動を支持している言動だと思い込んでの非難ほど困ったものはない。仮定法や背理法が理解できない人が人間の中には一定割合いるがそれに近い場合もある。演出意図・話の構成を読めていない場合に下手に書くのはやめよう。
話作りの基本テクニックとして「読者にストレスを与える」→「解消する」という手段があり、古今の面白いものには当然多用されているのだが、このストレス部分に対しての非難も見られる。SEEDはかなり極端に利用していたと思うのだが。
登場人物全員が同一の人格を持っている、監督や脚本の分身だと思っている。登場人物の評価と作品全体の評価をごっちゃにする、といった話の広げ方をする。仮定法や背理法が理解できない人はよく登場人物の前振り話題などに惑わされる。自分の話の及ぶ領域の切り分けができていないこともある。相殺法の誤用とほぼ同等のものも含まれる。
釣り合いが取れていない些事を挙げ、全体を批判する。ついでに外部要因を噛ませるとそれらしくなる。主観的な理由と相殺させるとよい。基準不明に被ることが多い。他の自分のほめた番組にも適用できるかどうかも考えてから書いたほうがよい。
ニセ科学などの例で顕著だが、議論において「どっちもどっち」的なことを言い始める例がある。両論併記といえば聞こえはいいが、信頼性の低い論の数がいくらあったところで、反対の議論と打ち消しあえるという考え方は甘い。ただし、対立論者を呆れされる効果が絶大なのでWebで愛用されている節がある。
いわゆる八百屋で魚を買えないと文句をつける状態。自分が違うテーマを望んでいたことにする。二重基準の一種。また、メイン視聴者層に向けるべきテーマを理解しようとしない。
Webでもいろいろなところでまじめにテーマについて語った場所はあるが、そんなのは信者の言うことだ、というくだらない批判も来るので、公式に近いソースとして小説の第3巻の石田彰(声優・アスラン役)の解説文を挙げておきます。私もまとめのところで挙げてます。
ま、最終回間際で現実に飲み込まれてしまって最後まで貫き通せないんだけどな。
対話や議論とはそれから新しい知見を得るということだと分かっていない。また、上の「結論だけを書く」欄との繰り返しになるが「なぜそう自分は考えたか」を出すようにしよう。結論だけ与えられてもその考えを理解できるはずがない。個人的には、好き嫌いでなく内容の良し悪しを1次元的に点数付けできる人の神経を疑っているが。
(できれば放送前がよいが)自分の評価基準や、好き嫌いをあらかじめ公表しておくこと! これを残しておくだけで、自分の書いた評に対する批判はたいてい一蹴できます。それほど長くない文書でも、部分しか読まずに枝葉に反射するレベルの人がいかに多いか実感できますよ。
ダメ感想サイトあれこれって項があった。私の場合ここで槍玉に挙げてるのは多人数での評価サイトや掲示板ですが。
念のため。私はシャア板に書き込んだことはない。あそこはSNRが悪すぎるし。どこのページに関してでもよいけれど内容や解釈に反論があったらちゃんとどこかに書いて私に知らせてくれれば反論なり取り下げなりしますが、私に対する人格攻撃や全体への印象批判しかしてこないので苦笑。文に対してもいきなり結論の記述しかないし。
正直、「自分で考えろ」がシリーズ通して言われ続けていることだというのに気づいていないんだろうなと思わざるを得ない人が多いですな。毎週同じパターンがそこらじゅうに書き散らかされてるんだもの。
2005/7/15 カトゆー家からリンクされる。物凄いアクセス量にびびる。それにしても前文の「もっとうまく叩け」のあたりに私の気持ちが含まれていることに気づかない人多いよ!だいたい、良い点も悪い点も派手に多すぎるんだよ種。ほめるほうもけなすほうも情報量が少なすぎる文章が、数ばかり多くて困る、というのが始まりなので。その後色々リンクされましたが朝目新聞からが桁違いの多さでした。たぶん最初の紹介は駄文にゅうすからでしたね。
「新たな見方を広げてくれるのが良い批評」とも昔書いているのでその辺を考慮していただきたい。マンセーもアンチもいらねえ。あと、「アンチ文のほうがパターンが少ないが量ばかり多くて集めやすい」のでこういうページになったことを理解していただきたい。もちろん、ひっくり返せばマンセー作れますよ。
各種メッセージに対する返信。面倒なのでまとめて。同じこと何度も書くのイヤだし。
このページと私の意図を読み違えてる人の理由が少し分かった気がする。「こういうのは意味がないからやるな」的まとめなのに「こういうのしか批判がないじゃないか」と私が指摘していると勘違いしているんだ。ついでにマンセーとアンチの2種類しか人はいないと思ってないか? 低レベルなアンチ引っ込めという部分だけを見て、信者だと思えるなんて幸せな頭してますね。
(2008年10月27日記) 00も放送が始まり、またこのページのアクセスが増加中です。関係でいまさらもう種ぽまとめサイトなんてものの存在を知りましたが揚げ足と針小棒大と早とちりと設定重視ばかりで単調ですねえ。
議論がバイナリな人の処置に困りますね。要はB作品がいまいちだと主張する人はA作品を褒めようとしている!という意味不明の主張をする人のことです。
このどれかで連絡つきますのでどうぞよろしく。メール。掲示板。匿名メールフォーム。思いつくままに書いているだけだから練り込みが足りないので改良のヒントとなるコメントがくるとありがたいのです。反論して欲しいんだけどな。個人的にほしいのは「種がいかにクソか」の具体的な意見と「Ζがどうすばらしいのか」の具体的な意見。受け売りしかできない人しか来なくて残念。