ガンダムSEEDシリーズの回想演出について

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SEEDシリーズについて「回想が多すぎる」というしょぼい悪口が氾濫しているのにあきれてDestiny放映中に感想録に1/20付で書いた記事を再構成・独立させた記事です。「アンチ種のガイドライン」が人気を博した際に割と広まってくれたようで、ずれた意見がほとんどあらわれなくなりめでたい限り。


SEED演出について解説・擁護したい。要するに「回想多すぎ」「喋らないので心理が分からない」という声が独立に書かれている文が(半)匿名評価で目立ちすぎるというのが気になっていた。

このシリーズには、モノローグ(さらに言えばナレーションも初期の「血のバレンタイン」説明のみである)をほぼ排除してあるという特徴がある。本編ではアスランの「俺の甘さがお前(ニコル)を殺した(S30話)」とナタルの「確かに、終わるのだ(S49話)」、シンの「オーブを討つなら俺が討つ(D40話)」くらいしか露骨にあらわれていないはず。ついでにわざわざ(富野台詞の特徴である)演劇調の起承結の揃った台詞をほとんど喋らない。そこで、このシリーズではモノローグをする代わりにそのときの心理に適切な昔のシーンを使いまわすことで思いを表現することにしているようだ。先のモノローグの場所でも見ればやたらと”回想”がはさまっている。技術的な理由として、バンクを使うのがデジタル編集で気楽になったからということと、止め絵でないシーンでつなぐほうが見栄えがするということがあるが、重視すべきは、ここで表現方法の違いがあらわれているので単純に「使いまわし=手抜き=駄作」といった短絡思考をするのではなく、演出意図の読み方を変えることである。直接台詞にしていなくても、”回想”が登場人物の思考内容を示していることに気づかなくては、各人の行動の動機に気づかないため話が理解できないことになってしまうだろう。

ほかの作品例を考えてみると、近頃では漫画のONEPIECEもそういうやり方をしているだろう。(´-`).o0○(考え事)といった表現はナミくらいしかしない。また、見せ場では回想シーンのコマを載せるという全く同様の手を使っている。

映像作品なのに何でも言葉で説明したり自分の気持ちを喋ってしまうようなものは安っぽい説明口調アニメ/ドラマとしてバカにされている傾向があったと感じていたので良い手だと思っている。人の考え事を完全に言語化できれば苦労はしないのだが、台詞として表してしまうと微妙に不自然だったり意味が限定されてしまったり(台詞だと自分に反論すると不自然なので相克・矛盾した心理が描きにくい)するので、情報量の多い映像で大枠を示すという監督の意図は面白い。誰が脚本を書いても同様の手法を頻繁に見るので絶対に監督は指示をしているだろう。

狙って演出していることは見抜いた上で批判しないと薄っぺらい。批評では演出意図を汲み取って、それが適切かどうかで判断すべきであって、汲み取ろうともせずに今までと違うといった不平を言うのは全くお門違いであると考える。ましてや「このように読める」と言っている人に対し「無理だ」などというだけで他の視点も提示できないようだったり、他の人が気づいていても分からないと連呼しているようではその人の読解力が疑われるのは当然。また、例は挙げづらいが、Webによくある「話に突っ込みを入れて楽しむサイト」の上手い下手についても同様のことがあり、本来の意図を汲んだ上で突っ込みを入れる人と、汲めずに曲解や叩きで受けを取ろうとするような人の差が、その突っ込みの面白さの差になっているのも感じられるだろう。

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